第15回 瞑想したらなんだか、かめはめ波打てそうな気がした。
4、5、6日目
私は今さらなる修行の為にミャンマーに向かっている途中なのですが、乗り継ぎのマレーシアで前回の修行の体験を完結させていない事を思い出し、必死にまとめています。笑
4日目の朝。
朝4時に起床し、いつものように瞑想センターに向かうとある掲示が。
“本日の午後よりヴィパッサナー瞑想の指導が始まります。”
やっとこの呼吸を感じ続ける毎日から脱出できるのか。
私はドラゴンボールでいうと、界王様の所に修行に来た悟空がやっと界王拳を教えてもらうかのように、舞い上がりました。
しかし一方、私達はお互いに喋ることを許させれていません。
自分が今までの瞑想で正しい方向に向かっているか、感覚をしっかり感じとれているのかは、誰にもわからないのです。
聖なる沈黙と呼ばれるこの9日間、私達はアイコンタクトや、ジェスチャーによる意思疎通も許されていません。
そして午後、いよいよヴィパッサナー瞑想の指導が始まりました。
今まで鼻から上唇周辺に置いていた意識を眉間、頭頂部へスライドさせていきます。
私は何かとてもずっしりした圧のようなものが移動するのを感じました。
4日半、約45時間に渡って私はここの感覚を感じる事に全精力を注ぎ、大事に育ててきたので当然といえば当然です。
そして頭頂部に溜まった感覚を頭皮全体に広げなさい。という指示に従い、行ってみると
その瞬間、今まで人生で一度も感じたことのないザワザワとした強烈な、それはもう、うっとりするような、気持ちの良い感覚が私の頭皮全体を覆い尽くしました。
それから指導者の指示に従い、この感覚を決まった順序で頭の先から足の先までまんべんなく体全体に動かしていきました。
顔や、手のひらなど、ものすごく強烈な感覚を感じる部分もあれば、太ももや、お尻などほとんど感覚を感じない部分がありました。
これからの修行はこのような感覚をどこでも平等に感じるようにしていくことです。
意識を置いた部分に感じる感覚は、なんとも言葉にし難いところがあります。
さっきも言ったプレッシャーのようでもあり、熱のように感じたり、ピリピリとした電気刺激のように感じたり、しかし紛れもなく意識を置いた場所には何かしらの感覚を感じることができました。
それを”気”という事ができるのならば、私は小学生の頃かめはめ波や、霊ガン(幽遊白書)が自分にも撃てるんじゃないかと思い、一人練習している時期がありました。
その時何か、気が溜まっていくような感じを手のひらや、指先に感じ、期待に胸を躍らせて撃ってみましたが、結果は何も起こりませんでした。
しかしそのような感覚が無駄では無かったと、20年経った今、瞑想によって知る事ができました。
聖なる沈黙が解けた後、皆にどんな感覚を感じたか聞いてみた所、皆似て非なるモノを感じていたそうです。
それは個人個人のバックグランドや、経験によるのかもしれません。
ちなみに超伝導を研究する物理学者のピーターは、この感覚をバイブレーションのように感じたそうです。
- 感覚の考察
私は感覚シナプス(ニューロン)の再結合のように感じました。
感覚シナプスの再結合というのは、例えばこのようにインド人はしなやかに首を前後、左右、あるいは回すように動かす事が出来ます。
このような動きを可能にしているのは、彼らが何か特別な筋肉を持っているわけではなく、多くの人が筋肉の正しい使い方を知らないだけなのです。
つまり運動ニューロンがうまく筋肉と結合していないということです。
感覚についても同じことが言えるのではないかと私は仮定しました。
- 感じるとはどういうことなのか?
視覚、嗅覚、味覚、知覚と呼ばれる感覚は『脳』が感じている感覚です。
例えば知覚で申しますと、私たちが物に触れた時に得られる皮膚感覚の情報は、脊髄や視床を経由し大脳新皮質に到達した後、より高次な脳領域に伝わります。この低次領域から高次領域に向かう入力を『ボトムアップ入力』と呼びます。
一方、高次から低次に向かう入力『トップダウン入力』と呼びます。
この遠心性、求心性、二つの情報が統合され、私たちは感覚を感じることができます。
もちろんこの『ボトムアップ入力』無しには私たちは何も感じることが出来ません。
しかしこの外界から与えられる情報は何も『触れられる』や、『何かが皮膚に刺さる』などの強い刺激でなくても、意識を集中させれば感じることができます。
皮膚は常に空気と接触していますし、人だって少なからず皮膚呼吸もしています。(余談ですが、ミミズは専用の呼吸器官を持たないので100%皮膚呼吸と言われています。)
しかし私たちは皮膚が空気に触れている感覚を、呼吸している感覚を日常生活で味わうことはまずありません。
私たちは普段感じている多くの感覚(sensation)を見過ごしている。
視覚、聴覚、味覚、知覚、あらゆる感覚器は強い刺激が入り続けると、ついにはそれに順応し、より強い刺激でないと反応しなくなります。
味覚で想像すると分かりやすいかもしれません。(塩辛い食事に慣れると薄味では物足りないですよね。)
マスコミやテレビも私たちの心により強い刺激を与えるものを考え、制作提供し続けています。(広告界では購買意欲をそそる為に仕方のない事ですが)
繰り返しですが私たちの多くは、生まれてこの方、ずっと外の世界に目を向けてきました。
言うならば、外の世界に刺激を求めてきました。
そして心が赴くままに、コロコロとTVのチャンネルを変えるかのように、より自分の心を楽しませてくれるものを、私たちは同時並行で常に探し続けています。
瞑想によって内の世界に目を向けるだけでなく、外の世界ばかり見ていると、私たちの感覚はどんどん強い刺激でなければ反応しなくなってきてしまいます。
- 無常という真理
感じる感覚は人それぞれ違えば、その日の体調、時間帯によっても微妙に違います。
ただ全ての感覚はただ一つ共通の性質を持っています。
それは前にも言ったよう、生まれては消えていく。無常(Impermanence)だということです。
無常というのはただ全てのものは移り変わっていくという、宇宙の真理です。
昔は良かったとか、あの頃は良かったなどという、センチメンタルな事でも、ネガティブな事でもなく、ただの事実であり、真理です。
無常は瞑想を理解する上での大きなテーマです。
私たちは無常ということを誰でも知識としては知っています。
無常とは物事は常に変化し続けているということ。
しかし多くの人は無意識に世の中や、物事が変化しないという固定観念に縛られています。
少し前に美魔女という言葉が随分ブームになりましたが、老いていく事にあらがおうとしたり、恋人の気持ちが変化しないと思っていたり、親によっては子供をいつまでも自分の手元に置いておきたかったり、その逆も然りです。
そして世の中の真理である無常にこのように逆らう事で、人は苦しみます。
なので私たちには瞑想を通じて、無常を体得する事が必要なのです。
体得するのと知識だけというもの間には大きな違いがあります。
例えば私は豪華客船の仕事に就く前、ホスピスの事務長をしていました。
多い時だと月に何人もの患者さんが息を引き取ります。
多くの家族に惜しまれながら最期を迎える人、誰にも看取られず悲しく最期を迎える人。
多くの人の最期を看取ってきたので、普通の人より私は死というものに対して、経験と知識はあるかもしれません。
そしてそれらの経験は私に生きる意味について考えさせてくれ、私はこの事務長の仕事を辞め、豪華客船の仕事に就くことを決めました。
しかし結局のところ、私は死んでいないのです。
例えば成功者の体験談やノウハウ、セミナーや自己啓発本を読んで、やる気になる人がいます。それはある程度彼らを助けるでしょう。
しかしそのモチベーションは長続きしません。
それは映画のようなエンターテイメントと一緒で、ある種の読み手側の心を楽しく、高揚させるよう作られています。
しかし私達は例えば本田宗一郎が、松下幸之助が味わった感覚や、高揚感を味わうことはできません。
所詮誰かの成功談や、ノウハウを学んだところで、人の表在意識しか変化はありません。
人体も絶え間なく変化し続けています。
人の体は約60兆個の細胞から構成され、それは日々生まれ変わっています。
これも多くの人は知識として知ってる事でしょう。
ただ当然のことながら、私達は普段それを感じることはできません。
しかし瞑想、この感覚を通して私達はそれを体得することができます。
それこそが無常を体得するという事です。
もちろん2600年前ブッダは細胞のことなどは知らなかったでしょうが、彼は瞑想を通じて、人体も絶え間なく変化していることを体得しました。
そしてついには菩提樹の下で悟りに至りました。
この体得ということが重要です。
体得無くして、潜在意識を変化させることはできないのです。
その結果驚くほど自分のモノ、考えに対する執着から解放されます。
それはある人にとっては新しい考えや、閃きが生まれ人生を照らすでしょう。
- 欲望と嫌悪のコントロール
この瞑想にはもう一つのメリットもあり、それは自分の感覚を通して人を不幸にすると言われている、渇望と嫌悪も排除する事ができるという事です。
瞑想中、ここにもっと感覚が欲しい。や、あのうっとりするような感覚がもう一度欲しい。といった渇望(craving)。
組んでる足が痺れて痛い。昔の嫌な思い出がよみがえってきた。といった嫌悪(abortion)に向き合い、それをただ観察(observe)するのです。
繰り返しですが、こういった欲望に対して私たちが取る最善の方法は抑圧ではありません。
”足が痺れて痛いなー。でも動かしてはダメだと言われてるし、こんな雑念がどうにかして抑えなければ!”
こう思ってはいけません。
物質的な欲、性欲、権利欲。あらゆる欲は抑制して凝縮させると、より心に根をはるので、絶対してはいけません。
観察し、そのような感覚に対して私達が無意識にとっていた行動パターンにまず気づくのです。
そうして人間は初めて潜在意識を変化させることができます。
そうして無常を体得し、色々な執着が無くなるのです。
こんな事を言うのは簡単ですが、やはり実際1日12時間を超える瞑想をしてますので、やる方は大変でした。
いわゆるZONEに入ったと言える、すごく良い瞑想が出来る時もあれば、全然集中できない時もありました。
しかしそうした瞑想の後、クリアな心で見る、田舎の空に輝くクリアな星空はそれはもうとても綺麗でした。
↑これはヨセミテ国立公園(カリフォルニア)に行った時の星空です。
いよいよ修行は終盤に差し掛かり、最終日の1日前、私たちはいよいよ喋る事を許されます。
一体どんな人がこの修行に参加し、どのように感じていたのでしょうか?
次回に続きます。